「奇跡」
という言葉を使わなくなった。
小学生の頃、台風の日に学校から帰る道中で、同級生たちはみんな、湖のような水たまりに入って遊んだり、傘を壊してはしゃいだりしていた。
私は、傘の下で当時信仰していた宗教の教典を囁きながら帰ったら、傘が壊れずに家までたどり着いた。
これは奇跡だと思った。
10代前半の頃までは奇跡という言葉をすんなり受け止め、よく耳にし、なんでも奇跡だと言っていた気がする。
GReeeeNやRADWIMPSの歌詞にも出てくるように、幸せや青春の時間そのものを奇跡と呼んで子供ながらロマンに浸っていた。
大学生になった18の頃、8歳年上の同級生に、「野望はあるか」と聞かれ、「そんなのみんなあるんじゃない?」と答えたところ、「あっても言えないよね」と彼は言った。
奇跡を信じることについても、言えないということをひしひしと感じるようになった。
大人の都合いい言葉や解釈を、反論したくてもウンウンと頷いて黙って聞いて、私の話はすべて「若いね」「そういう時期だよね」「これからでしょ」「若いのにそんなこと考えてるの」などの言葉で流される。
そんな機会が増えるにつれ、生きてることは奇跡なんてことは綺麗事にすぎず、カラオケでしか口に出すことはない。厨二病やピーターパンシンドロームのような扱いを受け、言葉でロマンを並べることを、避けて通るようになった。
身近な年下の10代の彼らは
、恥ずかしいセリフやダサい趣味を何の恥ずかしげもなくオープンにする。
そのような経験に基づいて、奇跡を信じることについて、背徳感を覚えるような世の中ってどうなんだと問いかけたい。
ここで読者さんは、いいじゃん奇跡信じても。口に出しても。気にしなくても。
と思うかもしれない。
確かに、その通りである。 この世でやらなくちゃいけないことなんてなくて、いつだって恥ずかしさによる閉鎖は自分を守り、自分を出さない手段にしか成り得ない。
しかし、「奇跡を信じること」について、口に出さない理由は、背徳感だけではない気がする。
自分にとっての幸運や、大事な時間を奇跡と呼ぶならば、それを自分のものとして仕舞っておきたいがために、言いたくないという理由である。
人に言ったり公に出すことで、自分の中で壊れゆくものになる気がするのだ。
奇跡を信じることは自分を信じることに近くて、外に出した瞬間、自分の中で美化したものが、他者によって壊れたり邪魔されることがある。
他者の解釈は自由で、勝手なものである。
でもそれで相手に嫌われるようなら、その人との関係は浅くて上っ面だけである。
だったら、自分を守ったり、自分を出さないよりかは、自分を認めた上でこの世と繋がろうとするならば、最初から口に出しても良い気がする。
身の回りで様々な出来事を、自分の努力や環境や実績だと誇りに思うよりも、奇跡だとしたほうが自分から距離が離れるので、幸せで楽なようなきがする。
言葉で言っても軽薄で、掴み取れない・恥ずかしいものならば、いっそ奇跡を歌詞に書いて歌う歌手のように、形に残して発表したほうが気持ちが良い。