saki kurushima

小豆島生まれ 愛知県立芸術大学卒業後、2018年東京芸大大学院修了。

密度とエコー

清澄白河のギャラリー、mumeiでの石塚嘉宏さん・高橋臨太郎さん・村田啓さん・高橋佑基さんのグループ展、『密度とエコー』にて作品を見て作家と話した感想メモを置いておきます。

批評ではないのでご注意を。



スケール感が全員違う4人。空間は、むらたさんが良い仕事をしてる、むらたさんだけが床面に対してのアプローチがなかったのも大きいかも。

 


むらたさん 


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海底やウサギの穴、編集のカットやフレームが入り口となり出口となりそれが交差し複雑な空間を生み出すこと。少し周りとは違う時間の速さで横断する動きによって起こるバグが、抜け道となり穴となり繋がって、オチはなく、迷路のような複雑な村田さんの思考や興味を、村田さん本人が把握するために形として残すために作品にするというのが良い。つうか分かる。

スケール感も立ち回りが激しく大きさに対しては周りや環境や興味によってブレてくる。これが優しさであるなら、村田さんはもっと自己中になってよいし、オチがない空洞化された空間を結ぶようで可変して掴めないような全体感を見たいので、個展をやって欲しいです。

本人のステートメントがクールすぎる、これはあまり良く感じなかった。村田さんとしゃべってると、上手く言葉にならない感じが逆に、作品に対する考えが伝わってきた。

わかんないけど、パッチワークのように様々なジャンルや文脈、興味、自分の過去や作ってきたものにたいして切り貼りしては違うかもーこうかもーと作っている感じ。それに対して作品としてのヴィジュアルは言い切りが強いのに考えは完結していない。その中途半端さに魅力を感じた。形にして残して自身の考えにまず答えを出しておくというのも本人の大事な制作動機だと思う。馬、うさぎ、鳥などの動きを捉えてることから、人間のスケールや動き以外も自分の空間として取り入れてるあたりは、村田さんの前世は人間じゃない。

 


ゆうきさん

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あたたかさに対しての包み方のスケール感は、根源であるストーブの話のように日常的な大きさでそれが頭をキョロキョロしなくても見える手のひらサイズだということ。

ゆうきさんの作品初めて見ましたが、本人の手作りのアイパッドケースと強く結びつけられました。

つるつるして電子的なものに対して動かないように滑り止めをし、それが機能的であるのにプラスして装飾性も大事にしたくなっているらしい。

 


ゆうきさんは話を引き出すのが上手く、自分のこともいっぱい話してしまった。

自分のスケール感は、対象物と自己に対しての差を掴み取る間で存在してるので、ものが大きい小さいではなく自分との差が大きいものに向かっていく感覚があり、それは自己のバックボーンにあるのではないかという話。島にいると海に囲まれて地形の解釈や他者との距離、海の向こう側のスケール感を知らないが故に、知った時の衝撃や展開がざざざっと重さを持って降ってくる。余談でした。

 


ゆうきさんの作品、初見では模型のように見えた。

水が雲になる構造や流れ、バリケードとエネルギーの間に隙間があること。それらを手と視界に収まる範囲で作ってあることに本人の認識やリアリテイがスライドされてて良い。

フィジカルな穴や針金の歪みや台座の隙間などは本人のセンスと言ったらそれまでなのかもしれないけど、それはあたたかみであったり、理屈や理論で説明されていることに対して、感情や感覚で対抗している。

このことは、電子的なアイパッドに対しての手作りのケース、滑り止め、とつながってくる気がします。

私の勝手な解釈であるかもしれないけど、電子的、機械的なものに対抗できるのは手業感を残した原始的なものに他ならないという考えは私と考えが似ている。

また、ただ感情的なものと論理的なもの。機械的なものと原始的なものはどっちが良くてどっちが悪いとかの力関係はなく、調和するため、そこにあたたかさを保っていく平和的な活動として作品がある、というのも感じた。

私自身は、理想は一緒だが、論理的で機械的なものに負けそうなので意地をはっている感じ。

 

 

 

りんたろうさん

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競走馬の血をたどると4匹の馬にたどり着く。

それは全て直線的に繋がり、血が濃いからこそ奇形が生まれる。

作品は馬の形をした、デカイ折り紙で、紙には本人の身体がスキャニングされている。四つん這いの状態で、1枚の紙の時にはバラバラの身体が折ること(圧をかけること)で、一つの馬の体制をとっているように 見える。しかし、それらは印刷やスキャニング、折る作業を通して様々な弊害があり、思うように馬の理想形になっていない。愛くるしい。

馬の奇形に対しての情を感じた。馬の奇形は存在するが、競走馬にはなれず直線で繋がっていたものを今後繋げることはできない。奇形のために身体を張って形に残した。というのが私の解釈で、その正義感は作品の大きさや形の鋭さにもある。

大きさや形の鋭さに対しては展示期間中に重力に負けて形が変わればまたそこに弊害が生まれて面白くなりそうだなと思う。そうなると本人のやりきれなさは悲しみになるかもしれないけど、客観的に見るとその悲劇は、限界に対しての身体の抵抗であったり、作品の抵抗であって、情だけはそこに残る。エモい。

 


りんたろうさんのスケール感は自分の身体、を通して、がしかしふた回りくらい大きい。

大きい皮や翼や足を身につけてるくらいの印象。

大きさに関しては本人の意見をもっと聞ければよかったなあ。

本人が自身の身体を使っている理由に、自身の血筋や身体のコンプレックスが理想があるのかなと思ったけど、そうではないらしい。

 


いしつかさん

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石塚さんの作品は1番分からない。

スケールは石塚さん自身のスケール感と同じくらいかな。ここは分かる。

分からなくすることに本人の意識はあるらしいので、まんまとハマってしまった。

物の要素が沢山ある中で、どこを自己視点とするかを逆算し、所作、をもとに形を作っている。形態が本質で、所作は形を作り出す時に初めて行われることで、形態は所作によって作られている。ものの素材や大きさを決めるときは、感覚や自分の所作で変化しやすい力関係にありそう。

しかし今まで順序立ててある種職人のように重ねた紙が、最終的にくしゃっとした紙の形に変化していることや、照明によって色が変わることに対してエロさがあっていいかもと受け入れている。

本質である形態に向けて所作を繰り返し計画的に行うのにたいして、そこに急展開が起こり寛容的になったり所作に変化を加えたりするのは石塚さんの人間的な部分なのかもしれない。

わたしが結果的に見えてきた作品は、ピンク色の印象とほうとうを天井から落としたような偶然性でできる形が先に見えてきたが、本人との話を聞いて、ファーストインプレッションとのギャップが人それぞれ違いそうなので、ここは展示が終わってから話を聞きたいなと思う。作品の話を鑑賞者が先にするか、作家が先にするか、はたまたその判断も時と人によって違うのが、その順番は、本人の作品のプランニングや順序、決まった所作に対しての突然の横槍のようなものと繋げられそう。。

 


突然ですが貴方がパッと思いついたスーパーマンは?


展示は2月20日までみたいです。ぜひf:id:sakirashima:20190218121952j:plainf:id:sakirashima:20190218122005j:plain