saki kurushima

小豆島生まれ 愛知県立芸術大学卒業後、2018年東京芸大大学院修了。

NITO03の作品について

もう1年以上更新してなかった

これが毎回の入りのセリフになるかもしれない

 

まぁいいや

 

あの、この記事は主に宣伝なんですが

今アート空き家 二人 のNITO03にて展示中の作品について書きます。

 

展示概要お先に失礼

NITO03
会期   2020年10月23日 - 11月23日
     会期中の 金、土、日、月、祝日のみ営業
     11時 - 19時

WEB nito20.com

スペース概要

名称  アート/ 空家 二人
所在地 東京都大田区蒲田3丁目10−17
    京浜急行 梅屋敷駅 徒歩6分 京急蒲田駅 徒歩8分 JR・東急 蒲田駅 東口 徒歩13 分
    ※道幅が狭いため、車でお越しの際は近くに 駐車お願いいたします。
連絡先 letter@nito20.com

 

 

 

自分へのメモ程度なので、これが作品の解釈とならぬよう願います。

 

作品に対するコンセプトは毎回あるが、

感覚で作ってるところもあって、全てを言語化したり、理論化できるなら、作品を作る意味などないのです。

 

まぁ、作品を作る意味って何かというところは、

自分は、見たいけど見たことないもん作る

スタンスなので、

分かるやつには分かるかも知んないけど、

分からんやつに分かって欲しいって気持ちはないし、分からんやつにも作品の解釈はさまざまで、私の作品においては、個人の主観で見てくださいってかんじ。

 

で、本題なんだけど、

 

NITO03の展示で出してる今回の作品、新作3点です。作品のルックスは、ウェブ写真が公開になれば、何かしらのsnsで挙げると思うんだけど、ここでは、作品のタイトルと、それぞれに対する思いを書きます。

 

以下、ひとつめです

 

タイトル
『End Role Rotation(study#1)
月へ行かないための準備』
"慌てないで確かめて
見えなくてもどこへ向かうのか"

 

某有名人に向けたアンチです。

もうこれ言えば、タイトル見て想像はつくかなと思うけど、

今回の3作品の中で、一番最初に思いついたアイデアの根元がこの作品です。

 

会ったこともない人に、いきなりくじ引きをしろと言われても、私はそのくじを引けません。

当たったところで、その景品を喜ぶこともありません。誰にでもチャンスがあるのだから、やったもん勝ちだと言われても、私はそれを選択しない。

頑固なのかもしれません。

玉がでないくじを回して、その音を聞いて自分を見つめている方が、月に行くよりもずっと、今の自分には必要なことです。

 

 

以下二つめです。

 

『End Role Rotation(study#2)
振り回された時の対処』
"老いたシワシワのスマホ置いて
机上の石を噛み砕く"

 

 

sns上で作品を見るたび、何が評価軸なのかがブレて、信じているものが、飽和される時がある。絵は、画面で見ることはできるのか。見ると言うことは、目を使って見ることではない。1度身体全体に染み渡るように取り入れることを、オンラインでする術を私はまだ身につけていない。絵具は、絵具の存在そのものが、美しいことを理由に、私は一度、キャンバスに絵を描くことに絶望した。

世の中に、大量に現れる絵が、良い絵が、光にも影にも存在していて、行く手を阻まれ、このまま大人になることを、恐れた。

自分の思想が広がるたびに、他人に振り回されていく感覚になっていた。

バッドに入るだけなので、私はもう一度、使い慣れた素材と、キャンバスと、他人と自分の関係を、向き合ってみることにした。

 

幼い頃、祖父母の家に行くと、チラシを渡されて、その裏に色鉛筆やクレヨンで絵を描いていた。色鉛筆を削る時の匂いや、色のついた紙に乗せる筆致の感覚を未だに鮮明に覚えている。

 

 

 

以下三つめです。

 

『End Role Rotation(study#3)
植木屋の1年』
"周り登りリズム刻む太鼓
ひらひら歩きランウェイ"

 

去年の11月から、植木屋をはじめた。

まだまだぺーぺーだが、木に登って剪定させてもらったり、泥んこになって穴掘ったり、竹垣を作ったり、石を運んだり、草を抜き落ち葉を掃除したり、植物を植えたり、または引っこ抜いたりして、太陽と共に仕事をしている。

 

木に登って剪定するとき、周りながらリズム良く切っていく、時に、力を入れて、時に、力をぬいて身体をくねらせて、切った枝が葉っぱを翼にして地上に降りていく。

 

 

この仕事を始める前に、

庭は、絵画や彫刻のような作品であるとおもう。またそれとは違って、動いたり成長したりする育てる感覚があることに興味があり、関わりたい

とか面接で言った。

 

いまは、考え方がちょっと変わった。

 

成長したり切ったり抜いたりして、育てるまたは奪うことに、手を加えることで、思い通りに行くとは限らないし、答えはないし、手を加えた分、形を変えて、返ってくることだ。

それが、回転して、多面的な会話になっていくことだ。

 

 

それは庭も、作品も、人間関係も、同じであり、いわゆる、コミュニケーションなんだろうと思う。

 

とここまできて、全ての作品のタイトルが、めちゃくちゃ長いことも、言葉を寄せておこうと思う。

『End Role Rotation

エンドロールのローテーション、終わりを繰り返すこと

 

(study)は習作、練習、試行錯誤

 

サブタイトル、は、三つめのものなら植木屋の1年

 

とセリフ、三つめのものなら

 

"周り登りリズム刻む太鼓
ひらひら歩きランウェイ"

 

セリフは、それを作っているときに降りてきた言葉を紡いだ。

 

最近わけのわからない 言葉たち

が、脳に降ってくることがある。

この不思議な現象の原因は未だ不明だ。

密度とエコー

清澄白河のギャラリー、mumeiでの石塚嘉宏さん・高橋臨太郎さん・村田啓さん・高橋佑基さんのグループ展、『密度とエコー』にて作品を見て作家と話した感想メモを置いておきます。

批評ではないのでご注意を。



スケール感が全員違う4人。空間は、むらたさんが良い仕事をしてる、むらたさんだけが床面に対してのアプローチがなかったのも大きいかも。

 


むらたさん 


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海底やウサギの穴、編集のカットやフレームが入り口となり出口となりそれが交差し複雑な空間を生み出すこと。少し周りとは違う時間の速さで横断する動きによって起こるバグが、抜け道となり穴となり繋がって、オチはなく、迷路のような複雑な村田さんの思考や興味を、村田さん本人が把握するために形として残すために作品にするというのが良い。つうか分かる。

スケール感も立ち回りが激しく大きさに対しては周りや環境や興味によってブレてくる。これが優しさであるなら、村田さんはもっと自己中になってよいし、オチがない空洞化された空間を結ぶようで可変して掴めないような全体感を見たいので、個展をやって欲しいです。

本人のステートメントがクールすぎる、これはあまり良く感じなかった。村田さんとしゃべってると、上手く言葉にならない感じが逆に、作品に対する考えが伝わってきた。

わかんないけど、パッチワークのように様々なジャンルや文脈、興味、自分の過去や作ってきたものにたいして切り貼りしては違うかもーこうかもーと作っている感じ。それに対して作品としてのヴィジュアルは言い切りが強いのに考えは完結していない。その中途半端さに魅力を感じた。形にして残して自身の考えにまず答えを出しておくというのも本人の大事な制作動機だと思う。馬、うさぎ、鳥などの動きを捉えてることから、人間のスケールや動き以外も自分の空間として取り入れてるあたりは、村田さんの前世は人間じゃない。

 


ゆうきさん

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あたたかさに対しての包み方のスケール感は、根源であるストーブの話のように日常的な大きさでそれが頭をキョロキョロしなくても見える手のひらサイズだということ。

ゆうきさんの作品初めて見ましたが、本人の手作りのアイパッドケースと強く結びつけられました。

つるつるして電子的なものに対して動かないように滑り止めをし、それが機能的であるのにプラスして装飾性も大事にしたくなっているらしい。

 


ゆうきさんは話を引き出すのが上手く、自分のこともいっぱい話してしまった。

自分のスケール感は、対象物と自己に対しての差を掴み取る間で存在してるので、ものが大きい小さいではなく自分との差が大きいものに向かっていく感覚があり、それは自己のバックボーンにあるのではないかという話。島にいると海に囲まれて地形の解釈や他者との距離、海の向こう側のスケール感を知らないが故に、知った時の衝撃や展開がざざざっと重さを持って降ってくる。余談でした。

 


ゆうきさんの作品、初見では模型のように見えた。

水が雲になる構造や流れ、バリケードとエネルギーの間に隙間があること。それらを手と視界に収まる範囲で作ってあることに本人の認識やリアリテイがスライドされてて良い。

フィジカルな穴や針金の歪みや台座の隙間などは本人のセンスと言ったらそれまでなのかもしれないけど、それはあたたかみであったり、理屈や理論で説明されていることに対して、感情や感覚で対抗している。

このことは、電子的なアイパッドに対しての手作りのケース、滑り止め、とつながってくる気がします。

私の勝手な解釈であるかもしれないけど、電子的、機械的なものに対抗できるのは手業感を残した原始的なものに他ならないという考えは私と考えが似ている。

また、ただ感情的なものと論理的なもの。機械的なものと原始的なものはどっちが良くてどっちが悪いとかの力関係はなく、調和するため、そこにあたたかさを保っていく平和的な活動として作品がある、というのも感じた。

私自身は、理想は一緒だが、論理的で機械的なものに負けそうなので意地をはっている感じ。

 

 

 

りんたろうさん

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競走馬の血をたどると4匹の馬にたどり着く。

それは全て直線的に繋がり、血が濃いからこそ奇形が生まれる。

作品は馬の形をした、デカイ折り紙で、紙には本人の身体がスキャニングされている。四つん這いの状態で、1枚の紙の時にはバラバラの身体が折ること(圧をかけること)で、一つの馬の体制をとっているように 見える。しかし、それらは印刷やスキャニング、折る作業を通して様々な弊害があり、思うように馬の理想形になっていない。愛くるしい。

馬の奇形に対しての情を感じた。馬の奇形は存在するが、競走馬にはなれず直線で繋がっていたものを今後繋げることはできない。奇形のために身体を張って形に残した。というのが私の解釈で、その正義感は作品の大きさや形の鋭さにもある。

大きさや形の鋭さに対しては展示期間中に重力に負けて形が変わればまたそこに弊害が生まれて面白くなりそうだなと思う。そうなると本人のやりきれなさは悲しみになるかもしれないけど、客観的に見るとその悲劇は、限界に対しての身体の抵抗であったり、作品の抵抗であって、情だけはそこに残る。エモい。

 


りんたろうさんのスケール感は自分の身体、を通して、がしかしふた回りくらい大きい。

大きい皮や翼や足を身につけてるくらいの印象。

大きさに関しては本人の意見をもっと聞ければよかったなあ。

本人が自身の身体を使っている理由に、自身の血筋や身体のコンプレックスが理想があるのかなと思ったけど、そうではないらしい。

 


いしつかさん

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石塚さんの作品は1番分からない。

スケールは石塚さん自身のスケール感と同じくらいかな。ここは分かる。

分からなくすることに本人の意識はあるらしいので、まんまとハマってしまった。

物の要素が沢山ある中で、どこを自己視点とするかを逆算し、所作、をもとに形を作っている。形態が本質で、所作は形を作り出す時に初めて行われることで、形態は所作によって作られている。ものの素材や大きさを決めるときは、感覚や自分の所作で変化しやすい力関係にありそう。

しかし今まで順序立ててある種職人のように重ねた紙が、最終的にくしゃっとした紙の形に変化していることや、照明によって色が変わることに対してエロさがあっていいかもと受け入れている。

本質である形態に向けて所作を繰り返し計画的に行うのにたいして、そこに急展開が起こり寛容的になったり所作に変化を加えたりするのは石塚さんの人間的な部分なのかもしれない。

わたしが結果的に見えてきた作品は、ピンク色の印象とほうとうを天井から落としたような偶然性でできる形が先に見えてきたが、本人との話を聞いて、ファーストインプレッションとのギャップが人それぞれ違いそうなので、ここは展示が終わってから話を聞きたいなと思う。作品の話を鑑賞者が先にするか、作家が先にするか、はたまたその判断も時と人によって違うのが、その順番は、本人の作品のプランニングや順序、決まった所作に対しての突然の横槍のようなものと繋げられそう。。

 


突然ですが貴方がパッと思いついたスーパーマンは?


展示は2月20日までみたいです。ぜひf:id:sakirashima:20190218121952j:plainf:id:sakirashima:20190218122005j:plain


将来住みたい家

もう一年くらい更新してない気がする

色々とタイミングはあったのに

書けなかった

といっても誰も見てないので

書く内容が全く整理できてないけど

書こうと思う。

 

将来のことが全くわからない

作家を続けていく意思はある

けど

 

名誉も金もあり、旦那も子もあり、

太ったり痩せたりもせず、健康で、

家もローンは毎月払うがそこそこな二階建てのマイホームで、車も持ち、

なんなら猫も居て、所謂一般的な幸せを手に入れてる将来があるとすれば、

私は作家はやめてしまっている気がする。

 

適度な不満や不安がないと

作品を作る意味がなくなってしまう。

幸せという言葉をいつまでも壊し続け、

わけのわからないものを

いつまでもわけのわからないものにしたい

 

そうすると、

将来は

そこそこ貧乏で、

名誉もなければ、友人もほとんどおらず、旦那も子もおらず、

いくつかの病気をかかえ、

ゴミのような作品を抱えるだけの場所と寝床を確保できる家にひっそりと住み、

時たま遊びに来るノラ猫を愛で、

車は相変わらずホームセンターのトラックを

時々借りる

 

ことになる。

それでも私は幸せな気がするな。

もうちょっと欲を言って、あり得てもよい将来を考えてみる

名誉はなくていい、金もたくさんは必要ないが、作品を実現するための金はある

友人は限られているがたまに会い、

実家の家族も相変わらず連絡は少ないが気が向いたら電話し、

愛する人は居て、子はなくても良い、

病気はせず至って健康、煙草はほとんど吸わない、酒もほとんど飲まない

実家の方に倉庫を持ち、若い頃の作品を置いておき、帰省した頃に漁って出してきたりする

ボロでもいいから、日本でも海外でも住む拠点や転がりこめる家をいくつか持ち、安心する家をひとつ持つ。

いくつかのお気に入りの場所が近くにあって、

蛇を飼ってたら猫は嫌うし諦めよう

各地でノラ猫を愛で、

車は誰かに借りるか、どこでも行けて金もかからない、荷物がいっぱい入る魔法の乗り物を持ってる。

 

現時点で結構欲張ってるけど、将来あり得てもいい幸せだ

 

そのために今何をすべきかは、ちょっと自分で考えます

サイゼリヤデート

 

 

もう今更流行っていないサイゼリヤデートはアリかなしかみたいな話。

 

私は全然ありだと思っていた。

たわいない会話や気の緩い関係で、気まぐれやお腹減ったから、本など広げるからという理由で立ち寄るマックやファミレス。

油で滑りそうなラーメン屋やビール瓶のケースに座らされる大衆居酒屋なんてのもむしろ盛り上がる。

 

この前お酒飲んだあと初めて屋台でラーメンを食べましたが心身ともに超満たされました。

 

 

でも。ガラクタに囲まれて物でいっぱいの部屋、野郎どもにまじって雑魚寝も余裕、美術かじってストリップ鑑賞を趣味とするおっさんみたいな私の感覚や生活は、世間一般的にはおかしいと自覚しています。

 

 

なのでおかしいか調べてみたんですが、初デートでサイゼリヤはNGという女子が過半数みたいっす。もっと言えば初デートで予約を取らない人もありえないと思う人は多いみたいです。ヘェ〜。

 

 

ようはデートの概念が人それぞれに違うからサイゼリヤデートが許せる許せないの話でぱっかり意見が分かれるんだと思いますが、

デートというものは待ち合わせをしてお洒落をして、彼氏がプランを考えてたり、ご飯も美味しいものを一緒に楽しみたい人からすると、ファミレスデートなんてもってのほかだろうし、遠方から旅行に来て、最寄りにもあるようなファミレスにはいったり、外食となれば毎回サイゼリヤというのも、ちょっと引くかもしれません。

 

 

バブルの世代を生きた方は一緒にご飯を食べるだけで女の子がお金を貰えるような時代ですから、ファミレスや汚い大衆居酒屋でデートなんていう感覚がありえないと思うかもしれません。

 

あとは自分にお金をかけずに、普段は安い食事に安い消耗品、最低限の生活で満足し、友人や家族へのプレゼントや後輩へご馳走したりするお金はしっかりかけたいタイプの方も、デートでファミレスを選択しない気もします、相手にもよりますが。

高級なレストランとファミレスでは話す内容も変わってくるでしょう、2人の時間にしっかりお金をかけて、大事な時間を過ごし有意義な話をしたいとか思ってる人はファミレスでも少し値段設定高めのところを選ぶと思います笑

 

あとはもう内面や外見とのギャップとかの問題。

めっちゃ金持ちの社長とかがサイゼリヤとか行ってみたいんだよねとか言うとなんか好感持てますよね。

高級ブランド店に汚い格好で入ってさらっと買い物済ませちゃう人とか良くないですか。

一回やってみたいんですよね。店員からも相手にされないだろうし。まぁこれは1人でやるものですかね…

 

シャアハウスする某ドキュメンタリー調の番組で男女が食事をすると必ずこれはデートなのか確認したり、食事だけだとしてもあえてデートと言って誘ったり、男女意識があるかないかってことだとおもうんですが、いちいち言ってるとデートであったとしても、ロマンが半減すると思うんですよね。

 

っていってサイゼリヤデートについていちいち首をつっこんであーだこーだ書き込んで投稿してしまう私はノーロマンですね、気をつけます…

ペトリコール

梅雨ですね。

私は昔から雨が好きなのです。

理由はたくさんある気がして思い出す限り書こうと思う。

雨がなかなか降らない地域に生まれた環境なので、レア感がある。

雪も全然つもらないし降らないから雪を見るだけでテンションあがる。

あと雨の香り。

最近知ったペトリコールという単語は、雨が降ったときに地面から這い上がってくる匂いのことらしい。ギリシャ語で石のエッセンスという意味で、私はこのペトリコールがたまらなく好きである。金木犀ジャスミンの香りと並ぶくらいいい匂いだと思う。

 

中学の頃は陸上部に所属していたが、雨の日は校舎内で部活が行われた。

馬跳びや廊下ダッシュ、階段ダッシュなるものだった。それも普段の練習より楽で好きだった。

 

青春時代には、何か嫌なことが起こると不思議なことに必ず雨が降った。

そんなときは傘もささずに自ら雨のシャワーを浴びて心身ともに浄化作業をした。失恋後に風呂で涙を流す現象とは違う。あれは目を腫らせたくないだけ。雨を浴びたその後は決まって風邪を引く。

 

しかし香川県を出た後はどうだろう。

原付を乗ってたころは、雨に打たれたら痛いし寒いし滑るので極力乗らないようにしてたから雨の日は嫌だったし、傘をさすのも嫌いなので外に出なくなる。

 

ただでさえ星が見えないのに何も見えなくなる。

洗濯物も乾かないし、雨に打たれたらやっぱり風邪を引く。

都会に出ればなぜかペトリコールを感じることもなくなった。

革靴好きだけど雨に打たれるとダメになるし、長靴を履くのも蒸れるし嫌だ。

雨の音はよく眠れるので、普段よりめいいっぱい眠ってしまうし(普段もよく眠る)雨に打たれて浄化したいできごとや、相合傘をさして距離が縮まりドキドキするような出来事が起こる年ごろでもない。

満員電車に乗るようになると、窓に結露が発生するほどムシムシしている。

 

雨って最悪じゃないか。

なんで好きなんて思ってたんだろう。

むしろ嫌いなんじゃない?

 

雨に情緒を感じなくなった自分に嫌気がさす。

でもでも雨の中夜中に映像撮影してプールの中にいる作品を撮ったり中に雨降る建物を構想したりもしてた。(どちらも発表はしてない)

 

最後の雨やレイニーブルーなんかもカラオケで歌うと最高じゃないか。

雨の日の写真も割と撮ってる。

 

やっぱり好きなんじゃん?

 

風邪を引いて、気づいたら治ってた

どういうことだろう。

もう4月だ。しかも末。

今年はとっても早い気がする。

 

通勤電車の中で移動時間の約1時間半何ができるか考えてその90分が終わる。

 

行きと帰りで一本映画が観れてしまうのに。

 

今回のブログは特にこれといったものはないです。

でも、ブログの存在を忘れてないことを証明するために書きました。

 

 

 

奇跡を信じること について

「奇跡」

という言葉を使わなくなった。

 

小学生の頃、台風の日に学校から帰る道中で、同級生たちはみんな、湖のような水たまりに入って遊んだり、傘を壊してはしゃいだりしていた。

私は、傘の下で当時信仰していた宗教の教典を囁きながら帰ったら、傘が壊れずに家までたどり着いた。

これは奇跡だと思った。

 

10代前半の頃までは奇跡という言葉をすんなり受け止め、よく耳にし、なんでも奇跡だと言っていた気がする。

GReeeeNRADWIMPSの歌詞にも出てくるように、幸せや青春の時間そのものを奇跡と呼んで子供ながらロマンに浸っていた。

 

大学生になった18の頃、8歳年上の同級生に、「野望はあるか」と聞かれ、「そんなのみんなあるんじゃない?」と答えたところ、「あっても言えないよね」と彼は言った。

奇跡を信じることについても、言えないということをひしひしと感じるようになった。

 

大人の都合いい言葉や解釈を、反論したくてもウンウンと頷いて黙って聞いて、私の話はすべて「若いね」「そういう時期だよね」「これからでしょ」「若いのにそんなこと考えてるの」などの言葉で流される。

そんな機会が増えるにつれ、生きてることは奇跡なんてことは綺麗事にすぎず、カラオケでしか口に出すことはない。厨二病ピーターパンシンドロームのような扱いを受け、言葉でロマンを並べることを、避けて通るようになった。

 

身近な年下の10代の彼らは

、恥ずかしいセリフやダサい趣味を何の恥ずかしげもなくオープンにする。

そのような経験に基づいて、奇跡を信じることについて、背徳感を覚えるような世の中ってどうなんだと問いかけたい。

 

ここで読者さんは、いいじゃん奇跡信じても。口に出しても。気にしなくても。

と思うかもしれない。

確かに、その通りである。 この世でやらなくちゃいけないことなんてなくて、いつだって恥ずかしさによる閉鎖は自分を守り、自分を出さない手段にしか成り得ない。

 

しかし、「奇跡を信じること」について、口に出さない理由は、背徳感だけではない気がする。

自分にとっての幸運や、大事な時間を奇跡と呼ぶならば、それを自分のものとして仕舞っておきたいがために、言いたくないという理由である。

 

人に言ったり公に出すことで、自分の中で壊れゆくものになる気がするのだ。

 

奇跡を信じることは自分を信じることに近くて、外に出した瞬間、自分の中で美化したものが、他者によって壊れたり邪魔されることがある。

 

他者の解釈は自由で、勝手なものである。

でもそれで相手に嫌われるようなら、その人との関係は浅くて上っ面だけである。

 

だったら、自分を守ったり、自分を出さないよりかは、自分を認めた上でこの世と繋がろうとするならば、最初から口に出しても良い気がする。

身の回りで様々な出来事を、自分の努力や環境や実績だと誇りに思うよりも、奇跡だとしたほうが自分から距離が離れるので、幸せで楽なようなきがする。

 

言葉で言っても軽薄で、掴み取れない・恥ずかしいものならば、いっそ奇跡を歌詞に書いて歌う歌手のように、形に残して発表したほうが気持ちが良い。